ジャズ喫茶は、海外からも注目され、日本の文化遺産とも言われるくらい、歴史的にも価値のある場です。1980年代ごろの最盛期には、40店ほどあった京都のジャズ喫茶。現在は8軒ほどだそうです。
私が住んでいる横浜にも、数軒のジャズ喫茶があります。しかしながら殆ど足を運べていません。行ってみたい気持ちはあるのですが、何か一押し足りないというか。何故、興味あるのに行けてないのか。ちょっと大袈裟めに、書き出してみます。
・徒歩や自転車の圏内に無い。ぶらりと行けない。
(バスで往復1時間。ついでに寄る場所でもない)
・ピュアオーディオの良さは、分かってはいるつもりだけれど。
(生演奏を聴きに行くほど、動機としては強くない)
・演奏の参考としたいのに、レコード=懐かしい音源だけ?
(そもそもギタリスト以外に無知。古い音源を勉強したい気持ちはあるけれど)
・一限の客状態では、新たなアーティストや音源との出会いも確率低そう。
(能動的に探れるネットも活用しきれていないのに)
・流石に今どき会話禁止は無さそうだけど、リラックスして聴けなさそうな雰囲気。
妄想や誤解も多分にありそうで、私はジャズ喫茶の楽しみ方を分かっていない。折角なので、ジャズ喫茶の魅力を教えていただこうと、創業51年、京都で最古のジャズ喫茶YAMATOYAさんにお邪魔しました。結論から言うと、こんな店が近所にあったら、間違いなく通っちゃうなあ、と。
YAMATOYA
左京区熊野神社交差点東入ル2筋目下ル
https://www.jazz-yamatoya.com/index.html/
接客中の合間を縫って、店主・熊代忠文さん(78)と妻・東洋子さん(76)にお話をお伺いします。話し込んでしまったので、2回に分けての掲載になります。熊代さん、宜しくお願いします。
◼️開店当時は店が学生で埋まってた
大学が近くに幾つかあることもあって、70年代は、お客さんの9割がたが学生でしたね。
僕が店を始めた(1970)頃の少し前くらいからジャズ喫茶が流行り始めました。この近くでは最も古かったしゃんくれーる(1956-1990)という店は、1階でクラシックを掛けてて、2階でジャズを掛けていました。
70年安保などの時代背景も受け、高野悦子さん(1949-1969)が「二十歳の原点」という日記(1971出版)の中で、しゃんくれーるに通っていた、ということを書いていて、多くの人が関心を持ったということもありました。
(編集者註:高野悦子さんは立命館大学に在学し、二十歳で鉄道自殺。彼女が何を考え、どう生きてきたのかを知ってもらおうと、遺族が日記を書籍化・映画化)
当時は、今のように学生1人ひとりが1戸づつのマンションに住んでいる訳ではなくて、何人かで一軒家をシェアして住んでたんです。だから違う大学に通っていても友達になって、一緒にジャズ喫茶に来てくれる、というのがありましたね。
◼️東京よりオーディオが高級だった
BigBeat(1965-)というお店が出来てから、京都のジャズ喫茶のオーディオが良くなったんです。そんなにレコードの枚数はなかったけれど。最初はマランツ(米国Marantz)とかマッキン(米国McIntosh Laboratory, INC )アンプで掛けてて。初めのスピーカーはタンノイ(英国Tannoy Ltd. )、そしてJBLのオリンパス(Olympus :米国JBL発売)にいって、最後はパラゴン(Paragon :米国JBL発売)までいってました。
僕が店を始めた頃に東京に行って、武蔵美にいた友達から、吉祥寺ファンキーの野口伊織さんを紹介されたんです。当時、東京のジャズ喫茶の多くはオーディオには無関心だったんですが、友人が「こいつ(熊代さん)、アルテック(米国Altec Lansing Technologies, Inc)のA3というデカいスピーカー使って、京都で店を開くんです」と伝えてね。
(編集者註:故・野口伊織さん(1942-2001)は、吉祥寺にて、ジャズ喫茶FUNKY、SOMETIMEほか多数店舗を展開)
そんな話に、野口さんがすごい興味を持ってくれて。それから、野口さんもオーディオに力を入れるようになって、東京のジャズ喫茶の音も良くなったんです。その頃の東京のオーディオは、壁一面に、日本のスピーカーを沢山埋め込んで、大きな音を鳴らしているだけ。京都のほうがオーディオが良かったこともあって、珈琲の値段も、東京より京都のほうが高いっていう人もいましたね(笑)。
◼️ 「京都ジャズスポットグループ」結成
昔は四条の真ん中よりも、大学の近くにジャズ喫茶があって、その後、街のほうにも増えていったんです。
(参考)1950年代頃のジャズ喫茶マップ 出典「京都ジャズ喫茶マップ」
(2020年、Kyoto Music Channel)https://kyotojazzkissa-map.com/
街中にジャズ喫茶が出来たのは、僕がこの店を開いた1970年を過ぎた頃ですね。四条通りにThe Man Hall、烏丸にBig Beatと52番街くらいだったかな。The Man Hallはオリンパス、Big Beatはパラゴン、52番街はアルテックA7を使ってましたね。
1970年に開店して2〜3ヶ月した頃、京都5軒くらいの店で連携して「京都ジャズスポットグループ」という活動をしていました。徐々に閉店してしまい、残っているのはうちだけになってしまいましたけど。懐かしいですね。
しゃんくれーる(1956-1990)さんも「京都ジャズスポットグループ」に誘ったら、最初は「私、そんなとこ入らないわ」と仰っていたんだけど、後から入ってくれてね。
その当時からジャズ聴いている人がどんどん増えて。今は当時のお客さんの子どもが来てくれたりするんです。「オヤジが良く来てたよ」なんてね。世代変わりして、当時のお客さんの子どもが、僕のところでアルバイトしてくれたり。いま65から70歳くらいの人たちが、当時のお客さんですね。
「スイングジャーナル」(1947創刊-2010休刊)で、何年かに渡って、2ヶ月に1回、ジャズ喫茶の京都マップを広告連載していたんです。30年くらい出稿していたから、積算すると3000万くらい払ってたってことになります(笑)。今残っているお店としては、ろくでなし(1980-現在)が一緒に広告を出してくれていました。
◼️オーナーの個性で各店の特徴も多様に
ラグ(1981-現在)というライブハウスは、最初、北山のほうでやっていて、その後、三条の御池のほうに移って(1988)、色々と貢献してくれました。Lush Life(1966-現在)は何度か店の場所を変えたり、名前を変えたりして、今のところに落ち着きましたね。
(1970年代の地図を見ながら)このマッコールズというのは、今のLush Lifeです。REMA(1972-閉店)は、しゃんくれーるの姉妹店。しゃんくれーるの実家の2階に住んでいらっしゃって、1階に店を出されたんです。それくらいジャズ喫茶が流行っていたということですね。
マッコールズはオーナーがブルースが好きで、ブルース中心の店だったんですが、今はLush Lifeとしてジャズをかけていらっしゃる。む〜ら(2010-現在)やHANAYA(2005-現在)は街中でライブ中心にやっていらっしゃいますね。
1960年から1970年にかけて、ジャズ喫茶をやっている人たちは、ジャズが好きでやっている方々でした。影響されて始められたThe Man Hall(1970-閉店)やZABO(1970-閉店)といったお店は、あまりジャズに興味のないオーナーでしたね。ZABOはフリージャズばかりかけている尖ったお店でしたが、女の子が任せられてやってました。
ジャズ喫茶という括りの中には、お酒を中心にした店もありました。ムスターシュ(時期不明)は完全にお酒を中心にしていましたし、BlueNote(1962-2016に後継者が奈良の実家に移転、東京・大阪のBlueNoteとは関係ない)は元々バーだったのが、ジャズをかけるようになったんです。
ジャズ喫茶が流行っていた頃は景気も良かったので、街中でも家賃が払えたけれど、今は厳しくなっているということはあるでしょうね。今残っているお店は、いづこも必要以上に店を広げず、頑張っていらっしゃいますよ。
◼️ 店内で喋ってはいけない時代
僕が通っていた頃のジャズ喫茶は、京都も東京も「喋らない、ただ聴くだけ」というのが原則、会話によるコミュニケーションはできませんでした。
お客さんがくると、空いているお席を指して「あそこが空いてますよ」と案内するんです。2〜3人で来て、席がいっぱいだったら、バラバラに座ってもらうしかなかった。注文を聞いて、珈琲を出して。自分の好きなレコードがかかると嬉しいな、と期待して待ってる流れですね。
◼️お客さんの好き嫌いが分かる?
当時、音楽を知る術としては、雑誌のスイングジャーナルが最大の情報源で、それ以外はジャズ喫茶に行って知るしかなったんです。皆んな自宅には聴けるような環境がなかった。
自分の好きなレコードがかかっている時は一生懸命に目をつぶって聴くけれども、自分の興味がない、或いは自分が嫌いなミュージシャンの時は、漫画雑誌を取りにいって読むという感じ。
観察してるとね、その人の好きな曲の指向が分かるんですよ。特定のお客さんを満足させようと思ったら、好きそうなレコードを3枚続けてかけたりしてね。店が混んできたなと思ったら、嫌いそうな曲をかけるとスッーと帰ってくれて(笑)。
◼️これからは酒売ってナンボ?
新宿のDIG(1961-、新宿)とDUG(1967-現在、新宿)(両店ともに中平穂積オーナー)に行くと、DUGはお酒も出して、お喋りもOKで、「絶対儲かってるよね」なんて話をしていました。DIGは本読むのはいいけど、新聞読むのは禁止。ガサガサするからね。
当時、木馬(1951-閉店、新宿)やポニー(1953-閉店、新宿)のマスターが遊びに来ててね。「昔は黙って聴かせて、可愛い女の子をおいて、それだけで客は来てくれた。これからは酒売ってナンボだから、ボトル入れさせてナンボだから」なんて言われて、「ああ、そうなの」なんて答えてました。
◼️未知のジャズ、最先端のジャズを求めて
その頃、レコードは京都のJEUGIAというところで仕入れていました。また、大阪のLPコーナーというお店はエアメールで買い付けをしていて「これ要りませんか?」と熱心に持って来てくれてました。この店でも、壁に「エアメール新譜コーナー」を作って、仕入れたレコードを紹介してました。
最近は大阪のディスクユニオンで仕入れています。京都のレコード屋さんは、売れ筋のメジャーなレコード中心で、僕のところに無いレコードは置いてなくて。そんなに在庫も変化しないので。
大阪のディスクユニオンは月に1回行ってますが、スケールが大きいから、毎回、レコードの箱が変わってるんです。まだ知らないレコードって、まだまだ山ほどあるんですよ。
◼️信用できる評論家
スイングジャーナルくらいしか情報源がない時代。ライターとか評論家といった人たちもお金をもらって書いているわけで、どれくらいのレベルの人なのか、どれくらい信用していいのか分からない訳です。中にはレコード会社をヨイショする人もいますからね。
でも、お医者さんやりながら、ライターやっているようなひとは、クライアントの顔色見て書く必要もない。なので辛口に評論もしていて、それが返って信用できるところがありました。
瀬川昌久さん(編集者註:取材の翌日12/29にご逝去、97歳。1950年代に富士銀行駐在員としてNY駐在)や野口久光さん(編集者註: 1909-1994、東和映画に勤務)には可愛がってもらいました。色々と教わりましたね。
現在は、自分で聴こうと思えば誰でも調べられるし、「このミュージシャン好きだったら、こういのも良いですよ」とネットで勧めてくれますよね。昔は情報源も限られるから、ドルフィーが好きになって、ドルフィーから次に。。と拡がっていく道みたいなものがあって、お互いに「これ聴いた?」とか、熱心に仲間うちで情報交換してました。
僕は頻繁に東京に行って、野口さん(前出)や中平さん(前出)、有名なジャズ喫茶の人たちに可愛がってもらい、教えてもらいました。その中で、すごく変わっていくのが分かったんです。ジャズは感じるものだから「これ聴くと分かるだろう?」とか言われながらね。
◼️前編の終わりに(編集者から)
前編は主に、京都におけるジャズ喫茶の変遷について、お話をお伺いしました。
最近は、ネットの発達・進化によって、情報収集や共有の面では、飛躍的に便利な環境が整いました。マニアックな情報にも、誰でも発信とアクセスができる状況です。一方で、1970-1980年頃は、情報へのアクセスが容易でない分、探究心が半端じゃなかった。熊代さんのお話を聞いているだけで、当時の熱量が伝わってきました。
昨今のネットサロンのようなコミュニケーションには、やや物足りなさを感じている方も少なからずいらっしゃるはず。ジャズ喫茶全盛期における、探究への熱量や、お互いに高め合っていけるエコシステムのようなリアルな仕組みを、今後、何かの形で発展・継承してゆけると良いですね。
後編は、熊代さんご夫妻の懐かしいエピソードをお聞きしたいと思います。是非、お時間あるときにお立ち寄りください。
【後編】https://jazzguitarnote.info/2022/01/16/kyoto-2-yamatoya-2/
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